「どこ迄が動物でどこからが植物であるか」

11月も最終日となりました。コロナウイルスという目に見えない小さな存在に翻弄されながら、2020年が過ぎ去ろうとしています。

 

宮沢賢治『ビジテリアン大祭』に「一体どこ迄が動物でどこからが植物であるか」という命題が登場します。

この問いに「なるほど」と思う一方で、それに対する反論にもうなずけるところがあり、どっちつかずなもやもやした感じでおります。

 

そんな折、一つの動画に出会いました。

 


Bloom Dance : HDR 4K Flower Timelapse (50種類の花の開花映像)

 

花たちの美しさ、まるで動物のような躍動感、そしてその儚さにも目を奪われます。

長い間そばにいて、じっと見つめ、

早回しにすることで初めて見えてくる、現実の姿があるのですね。

 

「一体どこ迄が動物でどこからが植物であるか」

 ーーこの世界の、どこに、どのようにラインを引くのか、あるいは引かないのか

 

『ビジテリアン大祭』に込められているのは、この問いだけではありません。

みなさんと一緒に読み、味わい、お話しできることを楽しみにしております。

 

* 次回ケア塾茶山 第40回 12月8日(火) は、

  宮沢賢治『ビジテリアン大祭』の続きを読む予定です。

  途中からのご参加も歓迎です。 

  全文は青空文庫にてご覧いただけます。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2589_25727.html

 

 

 

 

 

第40回ケア塾茶山は宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」(2回目)

昨日はご参加ありがとうございました。

西川勝さんナビゲートのもと、『ビジテリアン大祭』の冒頭部を読みました。

鍋をつつきながら、私たちと食べ物との関わりについて話し合い、楽しく興味深い時間となりました。

 

次回(第40回)12月8日(火)は『ビジテリアン大祭』の続きを読む予定です。

途中からのご参加も歓迎です。

 

全文は青空文庫にてご覧いただけます。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2589_25727.html

 

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もんでん奈津代さんインタビュー ~賢治作品の英訳にあたって~ その3 (最終回)

もんでん奈津代さんに、宮澤賢治の短編を英訳するにあたっての思いなどをお尋ねしています。連載3回目、最終回です。

 

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賢治の作品は私がこれまで英語で表現しようと考えたことのない世界、私が内に向かう、一人になった時に楽しむ世界でした。賢治の世界と英語の世界、それらは私の中にある両極端な世界のように感じました。私が愛しているアメリカやカナダの友人たちに「こういう世界があるんだよ」と、うまく表せるならぜひ読んでみてほしいと思うのですが、きっととても難しい作業になるだろうな、と思っています。

 

言葉にならない世界をあえて言葉にして伝えようとしているのが宮澤賢治の作品なのだと思います。私は賢治の作品を読む時には、よく音読します。頭で理解するのではなく、詩として読んだ時にボワボワボワーンと奥から不思議に広がってくる。そんな作品なので、意味として英語に訳すのは本当に難しいだろうな、と思うのです。

 

今回の英訳にあたり、これまで私が使っていた英語では不十分で、一つ一つ言葉を深く調べなくてはならないと感じています。そして作品の中で、どんな情景が目の前に広がっているのかというイメージを、私がありありと体で感じるということがきっと一番、必要なのでしょう。

とはいえ賢治は、作品の中で言葉を通してイメージを広げているのですから、結局は言葉でしかありません。賢治は言葉の選び方にとてもこだわっていました。何回もいろんな色で書き直された賢治の原稿用紙。私にとってもそういう作業が大事になってくるんだろうな、と思います。

 

例えば『マグノリアの木』に出てくる「諒安(リョウアン)」という人物の名前。「諒」という字は「真実」という意味、「安」は「安らぎ」。つまり、「真実を認めることによって、初めて安らぎを得る」というのが「諒安」という名前のもつ意味なのだそうです。初段階では「私は」と一人称で書いていたのを、この名前の主人公に変えた賢治。仏教思想と法華経に帰依していた賢治にとって、この名前にした意味は深く、これは「訳者註」で説明する必要があるだろうと思います。

 

一つ一つの言葉に対しどの言葉を選んでいくかというのは、私にとって大きな挑戦です。

 

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もんでん奈津代さんプロフィール

在野の南太平洋生活研究家・ツバル語英語 通訳/翻訳/教師。

著書『子連れ南の島暮らし』『ツバル語会話入門』。

ホームページ「天国に一番近い島ツバルにて」 http://monden.daa.jp/tuvalu.html

ツバルの離島、ナヌマンガ島での直近の8ヶ月の島暮らしをマンガに描いています。 https://note.com/mondennatu/m/meba8fc37584b

 

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もんでんさん、英訳にあたっての思いをお聞かせいただき、ありがとうございました。翻訳作品を楽しみにしています。

中秋の名月

 今年の中秋の名月は十月一日。日本ではすすきを飾ったりお団子を作ったりしてお月見を楽しみます。
 一方、中国の中秋節といえば月餅ですね。この間、月餅は月信仰で月神にお供えするためのものなのかという質問をいただきました。 

 

 そうですね...とても遠い昔の話になりそうです。

 天地がその姿形を成す前の状態は「混沌」と呼ばれる。そこに「盤古」という人物が現れ、斧で「混沌」を切り裂くと、長い年月をかけて天地は分離していった。盤古自身も分かれていった天地と共に巨人化していき、計り知れない時が経った末に死んだ。盤古が死後、その左目は太陽に、右目は月になり、あらゆる組織器官や生命現象は森羅万象へと化した。
 それが中国神話における「天地開闢」の言い伝えである。
 なので、中国(漢民族と言ったほうがより正確なのかもしれない)の古典的認知では、太陽と月が神格化されていない。その代わりに、それらを一連の事象とみなしてより大きな枠の中で捉えようとするのです。

 そのような考え方の片鱗が、賢治の『ビジテリアン大祭』に登場する陳さんの雄弁でも垣間見えるのではないでしょうか。

 

 ずいぶん脱線しました...

 満月と同じ形をしている月餅は、家庭円満や家族団らんといった素朴な願いがそこに込められているから親しまれているだけなのかもしれません。
 仰ぎ見るごと。想うこと。願うこと。十五夜の月を「望」とも呼びます。

 

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もんでん奈津代さんインタビュー ~賢治作品の英訳にあたって~ その2

もんでん奈津代さんに宮澤賢治の短編を英訳するにあたっての思いなどをお尋ねし、全3回の連載でお届けします。

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それまで日本に住んでいて、「世間の人々には、自分はちょっと変な存在なのだな」という感じがしていました。転校が多い家庭だったのですが、転校先でいじめられっ子になったこともありました。だけど、アメリカやカナダ、イギリス出身の友だちは私のことを「とてもユニークだ」「面白い」と認めてくれました。その人の前で自分のままでいられる、というのが英語で話す友人たちだったんです。どうも日本人だけと付き合っていたから、「自分は変だ」と思っていたけど、「外に出てみたら、こんなに認めてもらえるんだ!」と感じたのが、英語を話す世界だった。

率直にものを言っても、「え?」という反応をされない。日本の友だちからは引かれてたような話でも、英語圏の友だちは「すごく面白い」「洞察力が深い」と言って、どんどん話を聞いてくれる。

 

20代の私は日本語を話している自分よりも、英語をしゃべっている自分の方が自分だという感じがしていました。私の論理的にものを考えてズバッと言うところ、オブラートに包まないところが、西洋の論理世界にぴったり合っているんだろうな、と思いました。日本の文化にある、場の雰囲気で丸め込むようなところが苦手でした。英語の場合は、”A is B.”と明快です。英語なら何でも思っていることを言える、自由だ、と感じていました。

 

しかし今回、英訳する予定の賢治の作品を読んで、「この世界、とても深く響いてくる。けれどこの感じ、私は英語では触れてない。…西洋世界とは違うところがたくさんあるな」と感じました。

英語で、西洋の明解な論理構造で、頭で深く物事を追求してはっきり述べる、そういう明解な世界では見当たらない表現。頭で理解しようとしても、「わからない、何それ?」となってしまうような世界。

賢治は不思議な言葉をたくさん使っています。よくわからないけど、感覚で「そういう感じ」と、ふわーっと入ってくる。

 

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「その3」に続きます。

もんでん奈津代さんインタビュー 〜賢治作品の英訳にあたって〜 その1

ココペリ121学術・文化部門では、ケア塾茶山読書会で取り上げられた宮澤賢治の短編を英訳する試みを始めています。

訳者のもんでん奈津代さんは在野の南太平洋生活研究家であり、ここ15年ほどは南太平洋の島国ツバルと日本の間を行ったり来たりしながら、ツバル語と英語の教師や通訳、翻訳等のお仕事をされています。ココペリ121とご縁があって、今回の日本滞在中に宮澤賢治の短編の英訳をしていただけることになりました!

もんでんさんに、賢治作品を英訳するにあたっての思いなどをお聞きしました。全3回の連載でお届けします。

 

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宮澤賢治は、ますむらひろしさんが漫画化した作品の映画『銀河鉄道の夜』を10代の頃に何度も観ました。私自身が「人に溶け込めない」と感じている部分に、とても響きました。

銀河鉄道の夜』のジョバンニは、他の豊かな子どもたちと違って、いつも一人でいる。孤独だからこそ広がってくる世界、というところから、物語が始まっている。

私は感受性が鋭すぎるところがあるらしく、社会の中で人と交流するよりも山に入ってじっと木と語らうときが、より自分らしい時間のように感じられていました。私のそんな部分と共鳴する賢治の詩集や童話に、どんどん親しんでゆきました。『春と修羅』序の初段を覚えて、山で声に出してつぶやくと、時間や次元を超えた透明なところまで自然とひとつになれる感じがしました。

私が賢治にひたるのは、人から離れ、自分の内面に深く入り込んでいる時が多かったです。それは、英語や外国語が大好きで多様な国の人々との会話を楽しんでいるときの自分とは、違う自分の部分です。

 

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英語を勉強し始めたのは、中学の時にエチオピアの飢餓が深刻であることを知り、その救援活動に身を投じたいと思ったのが発端でした。「外に向かって何かしよう」という自分が英語と結びついていました。「国連に入ろう」と思って勉強してました。けれどその後「絵を描こう、内面を追求しよう」という方向へ転向して、英語の勉強からやや離れました。そして日本の広告代理店という英語を使わない仕事に就いたのですが、南米の楽器サンポーニャの世界に魅了され、「楽器の練習を長時間しながら効率よく働けるのは、英語教師だ」と思いついて、再び英語を勉強しながら教え始めたのでした。英語の勉強を再開するにあたって語学交流の貼り紙を出したりして、カナダやアメリカ出身の友だちが増えてきました。それが25歳ぐらいの頃です。それまで英語を話す人とうんと親しくなることがなかったけど、仲良く付き合う人がだんだん増えてきて、英語が楽しくなってきました。

 

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「その2」に続きます。