2024年2月12日、ケア塾茶山第71回は「涙の贈り物」を読みます

 私は社会福祉士育成コースで特別養護老人ホームで実習を受けたことがあります。入浴現場での実習カリキュラムが組まれていて、それは男性職員まじりの女性利用者の入浴介助というものでした。

 午前の時間は比較的に要介護度の高い入居者の入浴になっています。二階の風呂場で、みな入浴用車いすに薄着になって座り替え、脱衣所と呼ぶべきスペースに行列を成しています。ここで更衣介助担当が服を脱ぐのを手伝い、一人ひとりを裸の状態にして機械浴担当に引き継ぎます。そして私はその衣服着脱の補助スタッフとして配属されていたのでした。

 突っ立っている私を見て、誰?と言わんばかりに車いすに身を縮める人もいれば、なりふり構わずさらけ出す人もいました。職員のお手伝いをいつも遠慮しようとしている新規の入居者が後ろに並んでいます。なんだか今日はやけにおしゃべりだなという感じで、順番が回ってきてパンツを脱がしてあげたら、便がもれていた光景も目にしました。

 昼間に孫のように可愛がってくれていたお婆ちゃんたちは、いま目の前で一糸まとわぬ姿にされていきます。私は視線の置き場に困っていました。顔が紅潮している自覚はあったのですが、風呂場の熱気のせいなのか、早まる鼓動を聞こえなくなっていました。

 すると、一人のお婆ちゃんが目に留まりました。いつも首が倒れて車いすに座っているような人で、誰かと軽い会話でも交わしているところを見たことがなく、レクリエーションのときもごはんのときも、こうして1m先の何かをじっと見つめてばかりいるような人でした。

 勇気を振り絞った私は裏声で「服脱ぎますね」と声をかけて手を伸ばしていったら、お婆ちゃんは肘で私の手を払おうとし、自ら両手で肌着の裾を必死につかんでいました。彼女は恥ずかしかったと思うのですが、私はそれ以上に自分が恥ずかしかったのです。

 

 

 という作文をケア塾茶山の参加者が書いてみました。

 第70回「充足の贈り物」のなかでも、お風呂のお手伝い、羞恥心の話が出ていました。ケアの現場では避けて通れない課題でもあります。

 遠い記憶を辿れば、思い出した人はいませんでしたか。その人の声、その人の顔はもう鮮明に覚えていないかもしれません。ところが、その人は男なのか女なのかはいつまでたっても忘れることはありません。それは我々人間の性に対する原始的な認知なのだという説を聞いたことがあります。

 認知症を患い、一見閉ざされた世界のなかで時間を過ごしているかのように見える高齢者女性でも、自分の裸体を初見の異性職員に見られるのを固く拒みました。そこに強い意志が存在していることに気付かされたのでしょう。

 

 前置きが長くなりましたが、こうして良い本を読み、その文章の書き方を学び、自分らがやってきたケアに対して、新たな見え方を働かせてほしい。それを今までとは違う書き方で世に出すことで、障害者の日々の暮らしをもっと豊かなものにしていく、ひいてはケアのあり方というものをそういう文脈以外の人にも伝えられるような力を培ってほしいという願いを、進行役の西川勝さんからケアの未来を担う私たちに託されました。

 次回は「涙の贈り物」を読みます。ご参加心待ちにしております。